NHK抗議デモで知り合いになりました木更津のSさんから、
先日の靖国参拝の折のお話をメールで頂きました。
その中で、先の大東亜戦争敗戦間際、千葉の成東駅で起きた出来事について述べている記事を教えていただき、
私自身は初めて知り心を揺さぶられたので、今回紹介させていたただきます。
ご連絡ありがとうございました。
写真は、Sさんが昨年秋に成東駅前に行って、
この石碑の前で手を合わせて来た時撮影されたものだそうです。
「成東駅は、総武本線と東金線の分岐駅で、大きな駅を想像したのですが、駅の片側にしか市街地のない、小さな駅でした。」とのことでした。
以下全文御借りしました。
雑誌「正論」編集長の上島嘉郎さんのブログです。
記事引用/遠くの声を探して─「正論」編集長の彷徨記 2006/08/22
成東町「礎」の殉難者に思う『♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空…というのは、唱歌「夏の思い出」(作詞・江間章子、作曲・中田喜直)の歌い出しですが、私にも「夏が来れば」必ず思い出す話があります。産経新聞東京本社がまだ夕刊を出していた頃、「夕刊コラム」という各部局持ち回りの記者署名コラムがありました。そこにも書いたことがあるのですが、夏になると、私は決まって千葉県九十九里浜の成東海岸を訪れたくなります。夕暮れ時、浜辺に寝そべって、汀(みぎわ)を駆けてゆく水着姿の子供たちに目をやると、ゆっくりと時が流れてゆくような気がします。
あのコラムを読まなければ、私が成東の浜を訪れることはなかったかもしれません。
千葉県成東町──今年三月に隣接の山武町、蓮沼村、松尾町と合併し、いまは「山武市」となっていますが、「成東」という町の名を初めて知ったのは、昭和55年2月13日付の産経新聞一面コラム「産経抄」でした(当時はサンケイ抄)。私はまだ学生で、サンケイ新聞(当時の題号です)の一読者にすぎませんでした。
担当の石井英夫論説委員は、「九十九里浜で昼寝でもしようと総武線に乗り、行きあたりばったりに」早春の成東海岸を訪れたと書き出し、ここはアララギ派の歌人・伊藤左千夫の出身地でもある。「木立の中にかやぶきの生家が保存され、……生家の壁にセピア色の明治天皇のお写真があり、柱時計の針は歴史を凝結するように動かない」とその日のコラムを結んでいます。
石井さんはその後も何回か、九十九里浜・成東のことを綴っているのですが、忘れ難いのは、成東駅員殉難の話です。敗戦2日前の昭和20年8月13日の正午近く、構内下り線で起きた軍の火薬貨車の爆発のことで、早朝から米軍機の機銃掃射を受けて発火した貨車を、被害を最小限に食い止めるべく、身を挺(てい)して移動しようとした人々がいたのです。駅員15人、将兵27人で、彼らは避難しようと思えば避難できたものを、町民や旅客のために必死で消火活動を続け、貨車を動かしたのです。
被弾後18分、山かげまで来たとき、火薬満載の貨車は大爆発し、42人全員の命が散りました。このとき長谷川治三郎駅長は、貨車ホームで陣頭指揮していた位置で、胴体だけが転がっていたといいます。また戸田義保助役は、駅長事務室の前で頭の骨を折ってうつ伏せに倒れ、出札係の橋本とし子、駅手の田谷歌子ら女子職員は駅前広場まで吹き飛ばされていたそうです。
この出来事を刻んだ石碑が、今もJR成東駅頭に「礎」としてひっそりと建っているはずです。平和の立ち返るわずか2日前に命を投げ出した人々の享年は、私を愕然とさせます。転轍係・関谷昇18歳、同伊藤昭37歳、連結手・市東隆夫16歳、駅手・原俊夫14歳、同京相静枝18歳、同田谷歌子15歳、出札係・橋本とし子18歳……。みな当時の国民学校を出たばかりぐらいの年齢で生涯を終えているのです。
敗戦間近、男子駅員はそのほとんどが戦場へ行き、駅務は女子供が担っていました。いたいけな少年少女に一触即発の貨車の移動を命じるとは、それこそ恐ろしい軍国主義の発露で残酷極まりない、と反戦運動家や平和教育者は非難するのでしょう。だが、果たしてそうか。生き残った1人は当時を回想して、「強制や命令なんかじゃない。みんな、子供心に、それが仕事だ、役目だと直感したからなのでした」と語っています。
もちろん、この言葉がすべてではない。「誰しも命が惜しい」と思うのは当然です。しかし、その当然のささやきに抗(あらが)えるのが、人間のもう一面の真実ではないでしょうか。
「人は何かのために、誰かのために、命を投げ出すことができる」
成東町の悲劇は、戦争の悲惨さとともに、人間の崇高さも伝えていると私は思います。醜悪さや狡(ずる)さ、残酷さを持つ人間の、しかし、決してそれだけではない人間存在の真実です。
思えば、戦後はこうした人間の、否、日本人の“物語”を削り取ってばかりきたのではないでしょうか。何でもタカをくくって、恋愛も友情も、しょせんは打算の関係にすぎず、他人のために尽くす人間がいれば、そこには密かな計算があるはずだと疑う。美談があれば必ず裏に何かあり、お金や利権のために動いたと言えば本当らしいと説得力を持つ。そうやって人間の足を引っ張って、それこそが偽善を排した進歩的な人間観なのだと、冷めた目で見続けてきたのではないか。へそ曲がりの上に、たいてい二日酔いが加わっている編集者にはそう見えてなりません。
人間はそんなものじゃない。たとえ綺麗事と言われようとも、それを押し通す力がある。押し通せば、それは綺麗事ではなく真実となる。少なくとも私はそう思いたいのですが…いい歳をして甘すぎますか? 歴史や物語は、それに連なって生きる者にそうした確信を与えるものではないのか。1人の英雄によって記憶される物語ではなく、“普通”の日本人がどう振る舞ったか、という物語こそが噛み締められなければならない。60年前の特攻隊も、成東の少年少女たちも、しょせんは「犬死」だったのか。人として生き残ること、ただ生存すること、を超える価値は存在しないのか。
敗戦と、その後の60余年という歳月は、いったい日本人をどこまで変えたのでしょうか。』
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